カンボジア

カンボジア軍人が兵庫医大に来ました。

兵庫医大救命救急センターに事務局をおく JPR はカンボジアのフンセン首相直属軍が主導するカンボジアの医療体制の確立に協力しています。

この度、軍の最高司令官の General Mao さんを含む9名の軍幹部が来日され、兵庫医大救命救急センターの視察のあと、当科局員や京都大学のS先生とともに大阪梅田にくり出しました。

食事会では英語、クメール後、日本語(最も若い軍人は日本語の勉強をしています)が飛び交い、盛り上がりました。

しかし、カンボジアは常夏の国ですから、最近の大坂地方の極寒は体にこたえるらしく、マオさんは胃痛で、もう一人の軍人は高熱に見舞われ、会もそこそこにホテルに帰り、当科U医局長が往診して点滴するなど、大変な一日になってしまいました。しかし、お互いの友情がさらに深まったのは間違いありません。今度は夏に来ていただきましょう。

 

 

 

カンボジア訪問記 エピローグ

経済成長率が2桁を示すこの国には大変な活気があった。医療面だけでなく無限の可能性を感じずにはいれなかった。そして少なくとも今回我々が関わったカンボジアの人々は皆、温厚でいて日本そして日本人を慕ってくれていた。それはただ単に我々に期待しているという訳ではなく、現代の日本人が忘れかけている人の繋がりを大切にする気持ちであるように思えた。この短い期間でさえ我々が彼らから学んだこともとても多かったことに気気付かされた。

 

15日23時。ここはホーチミン空港のロビー。illyのカフェでパソコンを開いている。

私とU先生の下々二人はベトナム航空、ホーチミンで乗り換え、大阪に向かう。普段は好きな空港でのひと時であるが、極度の疲れでこの上ない苦痛である。起きる自信が無いので仮眠はやめておいた。異国の地に置き去りは御免だ。

帰ったら連日の当直が待っている。

カンボジアの医師も将来、過酷な労働をぼやくようになるのであろうか・・・。

カンボジア訪問記 その6

7月15日

濃厚なスケジュールで時間経過が早い。最終日だ。ジョージ先生、少しは良くなったと本人は言うが顔はまだ青白い。とりあえずベッドの上で座るリハビリから始めていただく。

今日の朝食も昨日のリクエストによりおかゆと揚げパン。ようやく食べれるようになったジョージ先生と一緒に美味しく頂く。

 

M氏が指導しているという兵士たちの消防訓練の成果を見せていただくことにした。

日本から寄贈された消防車(給水車・ポンプ車・指令車)救急車を使っての消火救助訓練だ。消火水栓などこの国にはなく給水車からの水をポンプ車、小型ポンプを用いて中継し放水する。機敏な日本の消防隊の動きには程遠いが彼らの熱意や意気込みは十分伝わってきた。

再びフンセン病院を見つつ、今後の具体策の検討。日本の常識の通用しないかけ離れた環境の中でどういった支援ができるか、課題は山積みである。またカンボジアのDr.が来日して研修することも考える必要がある。

 

さて、少し予定があいたので、実弾射撃をさせてくれるという。例によってM氏は少年のようにはしゃいでいる。午前中の座位のリハビリをクリアしたジョージ先生もようやく我々と合流した。さすがM氏は構える姿も様になっているが、病み上がりのジョージ先生をはじめ我々は鉄砲に撃たれているような形相であった。私にはよく分からないが3種類ほどの銃を撃たせてもらった。

 

さて、再び軍の高官達との会談。色々見てきたカンボジアそしてその医療の感想を率直に述べた。今後どのような形でフンセン病院そしてこの国の医療を「支援」できるかを真剣に考えなければならない。我々に対する彼らの期待の大きさを思い知らされ会は終了した。

 

これで今回の旅の行事はすべて終了した。本当に皆さんに親切にしていただいたので名残惜しい。荒れたトラフィックに揉まれ空港へと向かう。見覚えのある建物の前に到着した。

そう、初日に不安のなかジョージ先生にようやくめぐり合えたあの建物だ。一般向けターミナルとは別の建物でVIP専用ゲートであると今更教えられる。ジョージ先生はタイでの学会後の参加のためチケットの都合上、帰りもタイ経由となる。我々より1時間後の出発で我々より20分早く関空に到着する。寂しがりやの彼は先ほどからしきりに一緒に帰りたいとぼやいている。しかし、ジョージ先生、帰国に耐えうるまで回復してくれて本当によかったと思う。私とU先生、つまり下々の我々はベトナム経由で10時間かけて帰る。ちなみにこの航空チケットは大阪―札幌の片道正規運賃とほぼ同額である。航空会社も儲からない仕事だ。なんと、みんなで飛行機のタラップの下まで見送ってくれる。一応国際線なんですが・・。軍関係者というだけで何でもありだ。一般乗客の搭乗はまだ始まっていない。離陸し眼下に広がるプノンペンの町明かりが雲に隠れると同時に私の意識もなくなった。

 

今回の旅は何もかもが新鮮だった。我々救急医の日常も決して平凡なものではないが、日本の普通の生活から比べると驚きの連続であった。日本の常識、地球の歩き方の情報、それらが全く通用しない世界で今後我々はどういった協力ができるのか、また何を求められているのかを十分に見極める必要がある。

カンボジア訪問記 その5

7月14日 午後

基地へと戻り、ジョージ先生の寝室を覗くと朝出て行ったときとほぼ同様の姿勢で布団に包まっていた。体調は依然芳しくないようだ。これまでの報告をし、引き続き今日は休んでいただくことにした。

 

本日のディナーはジェネラルマオの歓迎接待。彼の私邸の向かいにあるカンボジア料理のお店。オープンスタイルのお店で隅っこではライブ演奏が程よいボリュームで行われている。少し離れたガゼボの円卓でジェネラル他、ベトナムの学者さんとやらも加わり総勢10人ほど。また例によって高そうなウィスキーが机の上においてある。乾杯のあとカンボジア料理の数々。どれもこれもおいしい。

しかしこのジェネラルのおじさんは飲ますのがとてもうまい。食事の最中でも頻繁に乾杯が行われ、コップを空けるように促される。ちなみに水割りにはなっているが、まめにウェイトレスが注ぎにきてダブルもしくはトリプルである。終盤には目の焦点が合わなくなってきた。

ところで、M氏はお世辞にも英語が上手とは言い難い。クメール語も一般の旅行者が出来る程度である。しかし日本語と単純な英単語を組み合わせた外国でよく耳にするいわゆる旅行者のおっさん英語でジェネラルと談笑している。ジェネラルがすごい人なのか、熱意と勢いでM氏の心が伝わっているのか、なんでここまで懇意にできるのであろうか。この謎は未だ不明である。M氏は「こころは言葉を越える」と言うが・・。偉大な男である。

さて、盛り上がった?夕食も終わりだ。飲みすぎで頭が痛い。今日もナイトクラブ行くだろと当たり前のように誘われたが、さすがに今日はクメール語講座を受ける気力も乏しく、ジョージ先生の看病をしなければならないという口実で丁重にお断りさせていただいた。

店を出るとジェネラルのお宅がすぐ目の前である。ちょっと寄っていくか?との問いに、なんとM氏は「私はコーヒーが飲みたい」と申し出た。なんと厚かましい男であろうか。浮き足立つM氏と緊張でやや固まった我々は分厚い門を通り抜けた。

まず目に入ったのは門脇に設置された巨大な発電機。ここカンボジアでは頻繁に停電が起こる。この家は停電知らず。ということだ。よく映画とかに出てくる迎賓館の貴賓室ような風景が目の前にある。中央にフルーツの盛られたテーブルがあり15人ほどが座れるであろうか、ソファーが囲んでいる。リビングにつながる各部屋は応接室、バーカウンターなどがあった。随所に置かれた調度品がすばらしかった。完全におのぼりさんになってしまった。促されるままソファーに座った。なんと既にM氏は主よりも先に座ってくつろいでいる。コーヒーと共にバナナとマンゴスチンを兵士が剥いてくれる。マンゴスチンは今まで食したものの中で最高の味がした。次々と色んなものが運ばれて来てエンドレスな感じであったので、そろそろ引き上げることにした。丁重にお礼を申し上げ、豪邸を後にする。玄関まで見送ってくださった。しかしこの国は貧富の差が著しい。

我々はM氏の車、エスコートのカボ大佐は別の車で出発した。道は分かるというM氏を我々は信じるほかなかったが、車はどんどん田舎道へと導かれていった。自分と別方向に発進した我々を心配したカボが携帯電話で連絡してきた。しかしそのうち知っているところに出てくるであろうという考えで、電話を切り、とりあえず車を走らせた。しかし一向に周囲の景色は変わらず、異国の地の中の異国であった。迷子になっているのは明らかであった。その状況を見透かしたかのように再びカボから電話が入る。車を止めてそこらへんにいる人に代われという。すぐに道端でたむろしていた一家を見つけ電話を代わった。カボがクメール語で状況を説明しているらしく、何事かと家の中から出てきた人たちも加わり10人くらいがいた。中には素っ裸の子供もいたが、痩せ型でおなかが出ているという飢餓体系なのが気になった。何を話したのかは定かでないが一同が笑い出した。どうやら相当遠くに来てしまっているらしい。彼らの身振り手振りとカボのガイドで再び走り出した。まもなく大通りに出た。看板もあり、何となく帰る方角が分かってきた。M氏もようやくなんとなく分かってきたようで、赤色灯をつけサイレンを鳴らして高速で走行する。そこから走ること約30分、ようやく基地に辿り着いた。

ベトナムにでも行ってしまうのではないかと多少スリリングであったが、無事に帰ってこれた。しばらくしてカボが様子を伺いに来た。すでに日付も変わった真夜中であったが、心配でしょうがなかったらしい。なんとホスピタリティ精神の優れた人なのであろうか。私とさほど歳は変わらず今はジェネラルの右腕庶務係であるが、カンボジアの将来を背負ってたつのは間違いないだろう。

カンボジア訪問記 その4

7月14日

ジョージ先生がダウン。発熱と腹痛で起き上がることが出来ないらしい。おまけに体の節々が痛いと云う。道中に読んだ地球の歩き方の感染症のページが頭をよぎる。ややこしい感染症で無ければよいが。

 

本日の朝食は魚の入ったおかゆと揚げパン。これがまた美味。おかゆにパンを浸して食べる。またしてもかなりの量を頂いてしまった。カンボジアには豆しかないと言っていたのは一体誰だ。ジョージ先生はトイレから出て来れず朝食どころではなかったので、明日は軽快していることを願って明日の朝食もこれにしてほしいとリクエストした。布団に包まり唸っているボスが心配であったが予定を変えることも出来ず、たまたま持参していたポカリスエットとOS-1を渡し、給仕の兵士に任せて彼を残して出かけることにした。

 

 ブリゲード70内にある今後最も我々が関わることになるであろうフンセン病院をざっと見学。エコーが出来る唯一のドクターと会う。卒後1年目とのこと。日本からの技術支援については興味深い様子であった。日本に勉強しに赴くことにも興味を示していたが、各条件をクリアし選抜されなければならない。日本の医師の過酷な勤務を紹介しM氏は彼らにいわゆる“日本魂・侍魂”を説くがどこまで理解が得られるだろうか。休日返上で働き捲る我々の体質は外国人から見てもやはり理解できないのだろう。

他3名のドクターと挨拶。若いがみな瞳は輝いていた。ICU横での手術室では足裏の創処置が行われていた。おおかた清潔の管理はされていたように見えた。

フンセン病院を後にし、今日のメインイベント、ソビエト友好病院へ向かう。道中40分ほど。道沿いにずっと商店や露店が並ぶ。それだけ消費もさかんと言うことだろうか。相変わらず3人乗車は当たり前のバイク無数。無秩序な交通で事故が起こらないのが不思議。

ちなみにこの国には日本のような救急システムはない。レスキューが要請されると無線で情報が流される。それを聞いた各病院の救急車がそれぞれの判断で迎えに行くという形だ。もちろんきちんと金が払えるかというのも条件に入るという。

 

病院に到着。入り口の救急隊員の詰め所を見せてもらった。10人弱のスタッフ2台の救急車と無線機、当直用のベッドがあった。ここの救急車も2年前に日本からの寄贈という。隊員たちはみんなM氏の教え子とのことでみんなフレンドリーだ。病院の建物は郊外の古いアパートメントのような雰囲気。病院長が迎えてくれる。

ここでは600人のスタッフうち200人が医者との事。正井氏が今後の抱負について昨日同様説明。外傷でつれてきた患者を一緒に手術までさせてもらえるか?との問いにはどうぞどうぞと二つ返事。なんと敷居のひくいことであろうか。途中から救急部長のドクターも加わりミーティング。クメール後と日本語の通訳の学生さんが手伝ってくれるが、この国のドクターはクメール後とフランス語、さらに少々の英語が話せるようだ。英語のレベルは高くはない。外傷で一番多いのは頭部外傷とのこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

病院の中を救急部長のドクターとめぐる。トリアージ外来のようなところ。中には3人のドクターと一人のナース。机を挟んだ面談ルームのようになっていて各テーブルの前にそれぞれドクターが座っている。たまたまなのかとても暇そうで新聞を読んでいる。ベッドがないが重症例もとりあえずここを通るとの事。ストレッチャーは見当たらない。

 

 

 

 

 

続いて入院が決まった人のER。ここは6床ほどのベッドがいっぱいでスタッフもたくさんいた。フランスからの学生さんも実習に来ていた。雑踏のなか黙々と看護師が点滴をとっていく。駆血帯はラテックスの手袋だった。しかし部署によって忙暇の差が激しいのは日本と同じだ。妙に親近感を覚える。2階に上りICUへ。主に術後の患者が入るとのこと。人工呼吸器はたった一台しかなく、挿管患者もいたがバッグがつながれていたのみであった。酸素も中央配管でなく各ベッドサイドのでかい酸素ボンベから来ていた。大気酸素の濃縮機はたくさんあった。術後の患者には家族が付き添い、数人が取り囲んで体中をお湯の入ったペットボトルでさすっていた。リハビリというが何のリハビリだろうか。家族のいない患者はどうなるのだろうか。疑問は絶えない。

 

次いで手術室へ。タイとカンボジアの協力友好を示す看板が随所にある。先ほどのICUもそうであったが、色んなところに料金表がある。手術室の前はもちろん各手術手技の料金表。金が無いやつは来るなということだ。ここの現地ドクターの話でもお金のない人は死んでいくという。実力社会である。手術室は一面の壁が景色の見える窓ガラスでとても明るかった。これはいいかもしれない。主な手術室は4室とのこと。開腹胆摘が行われているらしい。ラパロの器械は古いものがあるらしいが、誰もそれは使わないとのこと。小児病棟を見せてもらった。下痢部屋、感染症部屋、発熱部屋と症状により部屋が分かれているのが興味深かった。

病院を後にし、帰りの道中セントラルマーケットへ立ち寄った。しかしここの国は商店が多すぎる。走っている道の両側は常に何かのお店だ。面白いことにそれぞれ専門店のようで、バイクのヘルメット屋さん、ホイール屋さん、秤やさん、Tシャツ屋さん、ズボン屋さん・・と完全に分かれている。で、これだけ店があってもそれぞれにそれなりのお客がある様子ですごい活気だ。セントラルマーケットといえど、要はそれらの店がそのままつながっていっているので境界はよく分からない。M氏御用達の衣料店に連れて行ってもらった。Tシャツ1枚2ドル、シルクスカーフも2ドルと超破格。生地はかなりしっかりしている。ディーゼルやアバクロのTシャツもなんと4ドルで売っていたがこれはさすがにコピーですよね。所要時間10分ほどでお土産を一括購入。

これまでに何度かジョージ先生の携帯に電話をしているのだが出てくれない。ちゃんと生きているだろうかと少し心配しながら戻る。帰りにトイレットペーパーも大量購入。うちのボスがご迷惑おかけします・・。

カンボジア訪問記 その3

7月13日 午後

 

病院訪問を終え、ブリゲード70に戻り軍の高官たちと会談だ。豪華な赤いバラの花束をもらい赤絨毯の上を進む。20人を越えるブリゲード70の幹部たちの歓迎を受ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな高貴な会のつもりではなかった私は完全に動揺していた。さすが我がボス・ジョージ先生はこういう状況も予想されていたようでスーツ持参。軍人の彼らはもちろん軍の制服。私とU先生は出発前に現場にスーツなんか要らないという平易な考えで持っていかず、チノパンにポロシャツという場違いな衣装で参加。またしても失敗。この会を通してカンボジアから我々、そして日本が相当期待されていることが伝わってきた。

 

 

 

さて、想像以上のフォーマルの会談も終わり、せっかくなので軍の装備も見せていただくことにした。マニアにとっては垂涎なのだろうが残念ながら私はそこまで興味はない。戦車や各種銃を見せてもらった。平和と戦は常に隣りあわせだ。複雑な心境である。

 

 

 

 

 

 

 

 

夕食は軍の幹部たちも混ざり賑やかだった。賑やかとは言え共通の言語が無かった我々のテーブルはbody languageのみで場が進んでいった。

夕食後、ジェネラルマオ(ブリゲード70の最高責任者)が我々の宿泊する棟に訪れしばし懇談となった。

しかしM氏とジェネラルは本当に仲が良い。ジェネラルはM氏(正井さん)をボンマサイ(兄弟正井)と呼ぶ。馬が合うというか運命なのだろうか。本当の兄弟のようだ。

話の流れでジェネラルが所有の銃を見せてくれることになった。部屋に次々と各種中が運び込まれる。もちろん弾は抜かれているが、好奇心よりもやや恐怖の方が強い我々を尻目にM氏は少年のようにはしゃいでいる。構える姿も様になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで、勤務の都合か色んな方が我々の相手をして下さるが、今日は女性の兵士がそれら銃の説明なぞしてくれた。21歳という彼女はアメリカ海兵学校に国費で留学3年目のカンボジアのエリート。カンボジア人らしくない色白の肌に濃赤のマニュキュアと黒く光る銃との対比が何とも印象的だ。英語も堪能でマンハッタン在住。ジョージ先生はかつてNY近郊に住んでいたアドバンテージを全開にして終始ご機嫌であった。

 

 

重要な会談は終わったしお酒もたくさん頂いたし今日こそ早く休もうと思っていたが今日もまた飲みに行こうという。しかも我々の世話をしてくれているカボがジェネラルからの命令を受けたらしく、断ることは出来ないと言う。重い重い腰を上げて昨日に引き続きクメール語講座第2弾だ。今日はカンボジアの踊りも教えてもらった。なかなかうまくいかない。言葉が通じなくとも音楽と踊りは世界共通だ。 

カンボジア訪問記 その2

 

7月13日 午前

軍の施設だけあって、何の合図か早朝から何度もラッパの音が響き渡る。全く熟睡感のない目覚めであった。昨日の氷や生フルーツが気になったが我が腸たちは今のところ健全なようだ。

外を眺めると、兵隊が歩き回り、芝生に鶏が数羽いた。今日はどんな一日になるのであろうか。不安の方が大きい。朝食とのこと。普段朝を食べる習慣のない私であるがたくさん頂いてしまった。ちなみに宿泊しているゲストハウス内にダイニングがあり、きれいに並べられた食器に給仕の兵士が次々と食べ物を運んできてくれる。なんと高待遇。どれもおいしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

一息ついたところでM氏の車で出かける。昨日は暗くて分からなかった街の様子が新鮮だ。

凸凹の道路の脇には商店というか露店が連なり、パンとかフルーツとか色んなものが積み上げられている。トラフィックに秩序は全くなく車線はない。列を成さない車列にバイクやトゥクトゥク、ちゃりんこ、歩行者が入り乱れている。バイクは2人乗りは当たり前で(M氏の話ではタクシーらしい)4人乗っているのもある。ヘルメットをかぶっていない人も多い。普段大阪で運転している私でさえ、ヒヤリハットが30秒毎に訪れる感じ。「ここでは轢いてしまうつもりでないと運転できません。」とM氏。横断歩道もなくどこでも人やちゃりが横断している。ふと聞き覚えのあるサイレンの音が聞こえた。振り返ると日産エルグランドの救急車が走っていた。この国を走る救急車の大半が日本からの寄贈だという。サイレンを鳴らしていてもあまりに多いトラフィックがぐちゃぐちゃでスピードは全く出ていない。

 

 

 

 

 

 

 

冷や冷やし続けること30分、カルメット国立病院に到着した。この病院はここプノンペンでは最も進んだ病院だそうで1台のMRIと2台のCT(うち1台は64列MDCT)があるという。プノンペンでこれらの画像機器があるのはここだけらしい。ジョージ先生持ち前の外交力により会合の場が用意されておりこの日は病院長、事務長、外科部長などが迎えてくれる。1時間ほどの会談のあと病院施設を見せていただいた。ちなみに病床数は340。150人の医師と400人のNs. ERに来院する患者(重症例)は1日に50人とのことだ。全体としての印象は意外と設備は整っていた。が、ごった返す初療室でとある男性は挿管されているものの呼吸器にはつながれず、明らかに下顎呼吸になっていた。傍らでうちわで患者を扇ぐ家族であろう女性の姿が印象的であった。この国では病院に来れない人、お金のない人は死んでいく。病院のスタッフは言い放った。ここでは日本の常識は全く通用しない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手術室を見せていただく。ちゃんと着替えてキャップマスクも着用する。手術室は4部屋。麻酔器も一応あるにはあったが。この病院の医師たちはクメール語とフランス語を話す。医学はフランスで学んでくる人が多いという。ホワイトボードの患者リストもフランス語で記入されていた。レントゲン室を見せてもらう。1993年のカンボジアと日本の協力を示すシールが貼られていた。機材はどれも古い。1台のCTは64列とのことで日本のものと遜色なかった。造影も出来るようで読影もきちんとされている様子であった。

この病院にはハートセンターなるものも併設されている。日本のものと遜色無い透視の機械があった。話によるとアブレーションも行っているという。しかし同様、お金のある人向けのようだ。この国には健康保険だけでなくいわゆるinsuranceという概念がない。車の保険も同様ですべて自費とのことだ。病院の駐車場には医師の車か患者の車か、ランドクルーザーやレクサスなど、高級車が多かった。

 

 

 

 

カンボジア訪問記 その1

我が教室はJPRという組織の事務局であり、教授がその顧問である。 

今回その縁で医療視察という名目でカンボジアを訪れることになった。
 

 

7月12日20時

およそ12時間の長旅を終え、U先生と私はカンボジアの地に降り立った。

仕事なりとも、飛行機で海外に行くとなると多少は嬉しいものである。が、

今回は全く違った。家族や友人などにカンボジアに行く話をしても「ふーん」とか「へぇ」とか全く羨ましがられることはなく、挙句の果てには地雷に気をつけてとか、マラリアが流行ってるらしいでとか、感染症と名の付くものはすべて存在しているらしいとか、期待できる情報はひとつもなかった。とにかく無事に帰って来いよとの事であった。

長旅の道中、海外旅行の必携、地球の歩き方は完全読破した。ちなみにタイトルは「アンコールワットとカンボジア」。カンボジアはサブタイトルである。いつも海外旅行には欠かせない同書であるが、全くといって良いことが書いていない。もちろん今回観光は関係ないわけだが、ポルポト派の虐殺の話とか、水氷は飲むなとか、スリがそこらじゅうにいるとか、雨が降ると道が川になるとか碌な記述がない。長旅の疲れも相まってテンションは下がる一方であった。

さて、カンボジアでは到着後にvisaの申請を行う。他の人に混じって列に並んでいた。と、軍人らしき2,3人の男が寄ってきてDr.?と問いかけてくる。不信感むき出しでyesと答えるとパスポートと入国書類・バゲージクレームを出せという。パスポートは肌身離さずというのは海外旅行の鉄則であるが、制限エリア内であったし、勢いに押されてしぶしぶ差し出した。

待つこと5分。OK!との言葉と共に歩き出した。そのままimmigrationや検疫税関のカウンターの脇を通り抜けた。え、パスポートは?と思っていると空港の外に出てからvisaが発行され入国のスタンプが押されたパスポートを返された。どうやら今回の訪問先ブリゲード70の兵士であるようであった。パスポートは帰ってきたもののスーツケースは兵士に取り上げられ、促されるままに車に乗せられた。これからどこへ連れて行かれるのであろうか。片言の英語の他は全くわけの分からない言葉を使っている。やはり来なければよかった・・・。

ちびりそうな雰囲気に耐えること5分。別のターミナルに到着した。逃げ出すように車から降り建物に入ると、oh! Joji!! しばらくぶりに見る教授の姿があった。こんな迎え勘弁してくださいよと愚痴るもいつもの彼の穏やかな笑顔で平静を取り戻した。

そこから基地までは約15分。現地入りして久しいM氏の車で移動する。途中までは舗装された道路であったが、残りは舗装のされていない悪路であった。おびただしい数のバイクや自転車が道路を走っていた。外傷が多いであろうことは容易に想像できた。

今回の訪問先ブリケード70に到着した。ゲートは銃を持つ兵士が警備していた。

ゲストハウスに到着。きれいな建物とは言い難いがちゃんと冷房が効いている。今日まで別の訪問者(某病院のNsとのこと)がおられて今日日本に帰るとのこと。送別を兼ねた夕食があるという。飯があるとは全く思っていなかったし、カンボジアの食事は豆しかないという事前情報から、ベトナムでのトランジットで最後の晩餐として食べてきていた。失敗した。

 

 

食事はシンプルなもので野菜を炒めたもの、鳥を焼いたものを白ご飯と食べる。入らないと思いきや意外にもどんどんいけてしまった。

帰る人たちを見送ったあと、シャワーでもして今日は休もうと部屋の中を探検していると、今回我々のお世話をしてくれるカボ大佐が皆で飲みに行こうと言い出した。日ごろの睡眠不足と長旅で休みたかったが、イエスマンである私は断る訳もなく、プノンペンの夜に繰り出した。車を走らせること30分、とあるナイトクラブに到着した。永田町の人たちが六本木にのみに行くようなものであろうか、政府高官や軍幹部御用達のお店らしい。ステージでは生バンドの演奏があり、シンガーはこの辺りでは有名人らしいがもちろん知らない。各テーブルに女の子が付いてくれるのだがなんとカンボジア人の彼女たちはクメール語しか話せないという。(当たり前か・・・)しばらく沈黙が続いたが、せっかくの機会である。簡単なクメール語を習得する機会とした。

この国ではビールに氷を入れて飲むようだ。またおつまみとして各種のフルーツらしきものが並んでいる。たしか地球の歩き方によると、氷や生ものは要注意であったはずだが・・。

日付が変わったころにようやくお開きとなり、基地へと戻った。シャワーを浴び、その後の記憶はない。