カンボジア訪問記 その5

7月14日 午後

基地へと戻り、ジョージ先生の寝室を覗くと朝出て行ったときとほぼ同様の姿勢で布団に包まっていた。体調は依然芳しくないようだ。これまでの報告をし、引き続き今日は休んでいただくことにした。

 

本日のディナーはジェネラルマオの歓迎接待。彼の私邸の向かいにあるカンボジア料理のお店。オープンスタイルのお店で隅っこではライブ演奏が程よいボリュームで行われている。少し離れたガゼボの円卓でジェネラル他、ベトナムの学者さんとやらも加わり総勢10人ほど。また例によって高そうなウィスキーが机の上においてある。乾杯のあとカンボジア料理の数々。どれもこれもおいしい。

しかしこのジェネラルのおじさんは飲ますのがとてもうまい。食事の最中でも頻繁に乾杯が行われ、コップを空けるように促される。ちなみに水割りにはなっているが、まめにウェイトレスが注ぎにきてダブルもしくはトリプルである。終盤には目の焦点が合わなくなってきた。

ところで、M氏はお世辞にも英語が上手とは言い難い。クメール語も一般の旅行者が出来る程度である。しかし日本語と単純な英単語を組み合わせた外国でよく耳にするいわゆる旅行者のおっさん英語でジェネラルと談笑している。ジェネラルがすごい人なのか、熱意と勢いでM氏の心が伝わっているのか、なんでここまで懇意にできるのであろうか。この謎は未だ不明である。M氏は「こころは言葉を越える」と言うが・・。偉大な男である。

さて、盛り上がった?夕食も終わりだ。飲みすぎで頭が痛い。今日もナイトクラブ行くだろと当たり前のように誘われたが、さすがに今日はクメール語講座を受ける気力も乏しく、ジョージ先生の看病をしなければならないという口実で丁重にお断りさせていただいた。

店を出るとジェネラルのお宅がすぐ目の前である。ちょっと寄っていくか?との問いに、なんとM氏は「私はコーヒーが飲みたい」と申し出た。なんと厚かましい男であろうか。浮き足立つM氏と緊張でやや固まった我々は分厚い門を通り抜けた。

まず目に入ったのは門脇に設置された巨大な発電機。ここカンボジアでは頻繁に停電が起こる。この家は停電知らず。ということだ。よく映画とかに出てくる迎賓館の貴賓室ような風景が目の前にある。中央にフルーツの盛られたテーブルがあり15人ほどが座れるであろうか、ソファーが囲んでいる。リビングにつながる各部屋は応接室、バーカウンターなどがあった。随所に置かれた調度品がすばらしかった。完全におのぼりさんになってしまった。促されるままソファーに座った。なんと既にM氏は主よりも先に座ってくつろいでいる。コーヒーと共にバナナとマンゴスチンを兵士が剥いてくれる。マンゴスチンは今まで食したものの中で最高の味がした。次々と色んなものが運ばれて来てエンドレスな感じであったので、そろそろ引き上げることにした。丁重にお礼を申し上げ、豪邸を後にする。玄関まで見送ってくださった。しかしこの国は貧富の差が著しい。

我々はM氏の車、エスコートのカボ大佐は別の車で出発した。道は分かるというM氏を我々は信じるほかなかったが、車はどんどん田舎道へと導かれていった。自分と別方向に発進した我々を心配したカボが携帯電話で連絡してきた。しかしそのうち知っているところに出てくるであろうという考えで、電話を切り、とりあえず車を走らせた。しかし一向に周囲の景色は変わらず、異国の地の中の異国であった。迷子になっているのは明らかであった。その状況を見透かしたかのように再びカボから電話が入る。車を止めてそこらへんにいる人に代われという。すぐに道端でたむろしていた一家を見つけ電話を代わった。カボがクメール語で状況を説明しているらしく、何事かと家の中から出てきた人たちも加わり10人くらいがいた。中には素っ裸の子供もいたが、痩せ型でおなかが出ているという飢餓体系なのが気になった。何を話したのかは定かでないが一同が笑い出した。どうやら相当遠くに来てしまっているらしい。彼らの身振り手振りとカボのガイドで再び走り出した。まもなく大通りに出た。看板もあり、何となく帰る方角が分かってきた。M氏もようやくなんとなく分かってきたようで、赤色灯をつけサイレンを鳴らして高速で走行する。そこから走ること約30分、ようやく基地に辿り着いた。

ベトナムにでも行ってしまうのではないかと多少スリリングであったが、無事に帰ってこれた。しばらくしてカボが様子を伺いに来た。すでに日付も変わった真夜中であったが、心配でしょうがなかったらしい。なんとホスピタリティ精神の優れた人なのであろうか。私とさほど歳は変わらず今はジェネラルの右腕庶務係であるが、カンボジアの将来を背負ってたつのは間違いないだろう。