カンボジア訪問記 その4

7月14日

ジョージ先生がダウン。発熱と腹痛で起き上がることが出来ないらしい。おまけに体の節々が痛いと云う。道中に読んだ地球の歩き方の感染症のページが頭をよぎる。ややこしい感染症で無ければよいが。

 

本日の朝食は魚の入ったおかゆと揚げパン。これがまた美味。おかゆにパンを浸して食べる。またしてもかなりの量を頂いてしまった。カンボジアには豆しかないと言っていたのは一体誰だ。ジョージ先生はトイレから出て来れず朝食どころではなかったので、明日は軽快していることを願って明日の朝食もこれにしてほしいとリクエストした。布団に包まり唸っているボスが心配であったが予定を変えることも出来ず、たまたま持参していたポカリスエットとOS-1を渡し、給仕の兵士に任せて彼を残して出かけることにした。

 

 ブリゲード70内にある今後最も我々が関わることになるであろうフンセン病院をざっと見学。エコーが出来る唯一のドクターと会う。卒後1年目とのこと。日本からの技術支援については興味深い様子であった。日本に勉強しに赴くことにも興味を示していたが、各条件をクリアし選抜されなければならない。日本の医師の過酷な勤務を紹介しM氏は彼らにいわゆる“日本魂・侍魂”を説くがどこまで理解が得られるだろうか。休日返上で働き捲る我々の体質は外国人から見てもやはり理解できないのだろう。

他3名のドクターと挨拶。若いがみな瞳は輝いていた。ICU横での手術室では足裏の創処置が行われていた。おおかた清潔の管理はされていたように見えた。

フンセン病院を後にし、今日のメインイベント、ソビエト友好病院へ向かう。道中40分ほど。道沿いにずっと商店や露店が並ぶ。それだけ消費もさかんと言うことだろうか。相変わらず3人乗車は当たり前のバイク無数。無秩序な交通で事故が起こらないのが不思議。

ちなみにこの国には日本のような救急システムはない。レスキューが要請されると無線で情報が流される。それを聞いた各病院の救急車がそれぞれの判断で迎えに行くという形だ。もちろんきちんと金が払えるかというのも条件に入るという。

 

病院に到着。入り口の救急隊員の詰め所を見せてもらった。10人弱のスタッフ2台の救急車と無線機、当直用のベッドがあった。ここの救急車も2年前に日本からの寄贈という。隊員たちはみんなM氏の教え子とのことでみんなフレンドリーだ。病院の建物は郊外の古いアパートメントのような雰囲気。病院長が迎えてくれる。

ここでは600人のスタッフうち200人が医者との事。正井氏が今後の抱負について昨日同様説明。外傷でつれてきた患者を一緒に手術までさせてもらえるか?との問いにはどうぞどうぞと二つ返事。なんと敷居のひくいことであろうか。途中から救急部長のドクターも加わりミーティング。クメール後と日本語の通訳の学生さんが手伝ってくれるが、この国のドクターはクメール後とフランス語、さらに少々の英語が話せるようだ。英語のレベルは高くはない。外傷で一番多いのは頭部外傷とのこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

病院の中を救急部長のドクターとめぐる。トリアージ外来のようなところ。中には3人のドクターと一人のナース。机を挟んだ面談ルームのようになっていて各テーブルの前にそれぞれドクターが座っている。たまたまなのかとても暇そうで新聞を読んでいる。ベッドがないが重症例もとりあえずここを通るとの事。ストレッチャーは見当たらない。

 

 

 

 

 

続いて入院が決まった人のER。ここは6床ほどのベッドがいっぱいでスタッフもたくさんいた。フランスからの学生さんも実習に来ていた。雑踏のなか黙々と看護師が点滴をとっていく。駆血帯はラテックスの手袋だった。しかし部署によって忙暇の差が激しいのは日本と同じだ。妙に親近感を覚える。2階に上りICUへ。主に術後の患者が入るとのこと。人工呼吸器はたった一台しかなく、挿管患者もいたがバッグがつながれていたのみであった。酸素も中央配管でなく各ベッドサイドのでかい酸素ボンベから来ていた。大気酸素の濃縮機はたくさんあった。術後の患者には家族が付き添い、数人が取り囲んで体中をお湯の入ったペットボトルでさすっていた。リハビリというが何のリハビリだろうか。家族のいない患者はどうなるのだろうか。疑問は絶えない。

 

次いで手術室へ。タイとカンボジアの協力友好を示す看板が随所にある。先ほどのICUもそうであったが、色んなところに料金表がある。手術室の前はもちろん各手術手技の料金表。金が無いやつは来るなということだ。ここの現地ドクターの話でもお金のない人は死んでいくという。実力社会である。手術室は一面の壁が景色の見える窓ガラスでとても明るかった。これはいいかもしれない。主な手術室は4室とのこと。開腹胆摘が行われているらしい。ラパロの器械は古いものがあるらしいが、誰もそれは使わないとのこと。小児病棟を見せてもらった。下痢部屋、感染症部屋、発熱部屋と症状により部屋が分かれているのが興味深かった。

病院を後にし、帰りの道中セントラルマーケットへ立ち寄った。しかしここの国は商店が多すぎる。走っている道の両側は常に何かのお店だ。面白いことにそれぞれ専門店のようで、バイクのヘルメット屋さん、ホイール屋さん、秤やさん、Tシャツ屋さん、ズボン屋さん・・と完全に分かれている。で、これだけ店があってもそれぞれにそれなりのお客がある様子ですごい活気だ。セントラルマーケットといえど、要はそれらの店がそのままつながっていっているので境界はよく分からない。M氏御用達の衣料店に連れて行ってもらった。Tシャツ1枚2ドル、シルクスカーフも2ドルと超破格。生地はかなりしっかりしている。ディーゼルやアバクロのTシャツもなんと4ドルで売っていたがこれはさすがにコピーですよね。所要時間10分ほどでお土産を一括購入。

これまでに何度かジョージ先生の携帯に電話をしているのだが出てくれない。ちゃんと生きているだろうかと少し心配しながら戻る。帰りにトイレットペーパーも大量購入。うちのボスがご迷惑おかけします・・。