カンボジア訪問記 その1

我が教室はJPRという組織の事務局であり、教授がその顧問である。 

今回その縁で医療視察という名目でカンボジアを訪れることになった。
 

 

7月12日20時

およそ12時間の長旅を終え、U先生と私はカンボジアの地に降り立った。

仕事なりとも、飛行機で海外に行くとなると多少は嬉しいものである。が、

今回は全く違った。家族や友人などにカンボジアに行く話をしても「ふーん」とか「へぇ」とか全く羨ましがられることはなく、挙句の果てには地雷に気をつけてとか、マラリアが流行ってるらしいでとか、感染症と名の付くものはすべて存在しているらしいとか、期待できる情報はひとつもなかった。とにかく無事に帰って来いよとの事であった。

長旅の道中、海外旅行の必携、地球の歩き方は完全読破した。ちなみにタイトルは「アンコールワットとカンボジア」。カンボジアはサブタイトルである。いつも海外旅行には欠かせない同書であるが、全くといって良いことが書いていない。もちろん今回観光は関係ないわけだが、ポルポト派の虐殺の話とか、水氷は飲むなとか、スリがそこらじゅうにいるとか、雨が降ると道が川になるとか碌な記述がない。長旅の疲れも相まってテンションは下がる一方であった。

さて、カンボジアでは到着後にvisaの申請を行う。他の人に混じって列に並んでいた。と、軍人らしき2,3人の男が寄ってきてDr.?と問いかけてくる。不信感むき出しでyesと答えるとパスポートと入国書類・バゲージクレームを出せという。パスポートは肌身離さずというのは海外旅行の鉄則であるが、制限エリア内であったし、勢いに押されてしぶしぶ差し出した。

待つこと5分。OK!との言葉と共に歩き出した。そのままimmigrationや検疫税関のカウンターの脇を通り抜けた。え、パスポートは?と思っていると空港の外に出てからvisaが発行され入国のスタンプが押されたパスポートを返された。どうやら今回の訪問先ブリゲード70の兵士であるようであった。パスポートは帰ってきたもののスーツケースは兵士に取り上げられ、促されるままに車に乗せられた。これからどこへ連れて行かれるのであろうか。片言の英語の他は全くわけの分からない言葉を使っている。やはり来なければよかった・・・。

ちびりそうな雰囲気に耐えること5分。別のターミナルに到着した。逃げ出すように車から降り建物に入ると、oh! Joji!! しばらくぶりに見る教授の姿があった。こんな迎え勘弁してくださいよと愚痴るもいつもの彼の穏やかな笑顔で平静を取り戻した。

そこから基地までは約15分。現地入りして久しいM氏の車で移動する。途中までは舗装された道路であったが、残りは舗装のされていない悪路であった。おびただしい数のバイクや自転車が道路を走っていた。外傷が多いであろうことは容易に想像できた。

今回の訪問先ブリケード70に到着した。ゲートは銃を持つ兵士が警備していた。

ゲストハウスに到着。きれいな建物とは言い難いがちゃんと冷房が効いている。今日まで別の訪問者(某病院のNsとのこと)がおられて今日日本に帰るとのこと。送別を兼ねた夕食があるという。飯があるとは全く思っていなかったし、カンボジアの食事は豆しかないという事前情報から、ベトナムでのトランジットで最後の晩餐として食べてきていた。失敗した。

 

 

食事はシンプルなもので野菜を炒めたもの、鳥を焼いたものを白ご飯と食べる。入らないと思いきや意外にもどんどんいけてしまった。

帰る人たちを見送ったあと、シャワーでもして今日は休もうと部屋の中を探検していると、今回我々のお世話をしてくれるカボ大佐が皆で飲みに行こうと言い出した。日ごろの睡眠不足と長旅で休みたかったが、イエスマンである私は断る訳もなく、プノンペンの夜に繰り出した。車を走らせること30分、とあるナイトクラブに到着した。永田町の人たちが六本木にのみに行くようなものであろうか、政府高官や軍幹部御用達のお店らしい。ステージでは生バンドの演奏があり、シンガーはこの辺りでは有名人らしいがもちろん知らない。各テーブルに女の子が付いてくれるのだがなんとカンボジア人の彼女たちはクメール語しか話せないという。(当たり前か・・・)しばらく沈黙が続いたが、せっかくの機会である。簡単なクメール語を習得する機会とした。

この国ではビールに氷を入れて飲むようだ。またおつまみとして各種のフルーツらしきものが並んでいる。たしか地球の歩き方によると、氷や生ものは要注意であったはずだが・・。

日付が変わったころにようやくお開きとなり、基地へと戻った。シャワーを浴び、その後の記憶はない。