センター長の雑感

神戸新聞に当センターのDMATメンバーが取材されました。

1月17日の神戸新聞に、『兵庫医科大学 救命救急センター』のDMATメンバー、山田太平医師、千島佳也子看護師が載りました。昨年7月に『兵庫県こころのケアセンター』であった訓練の様子です。

ともに日常の救急医療に果敢に取り組み、また災害医療の訓練と学習を怠らない立派な救急医、救急看護師です。『兵庫医科大学 救命救急センター』には、他にも災害医療に熱心に取り組むスタッフが大勢います。ときどき、武庫川の河原で自主訓練などしています。興味のある方はいつでもご連絡ください。

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ところで、この訓練を企画した『兵庫県災害医療センター』の中山伸一副センター長は私の神戸大学第一外科の研究室の先輩です。

神戸の地震の時に、CNNの電話に私が応対すると、「英語の話せる奴に替われ」と言われ、アメリカ帰りの中山先生がすらすらとインタビューに答える姿を見て、「かっこえ~!」と思ったものです。それが私のアメリカ移住計画の発端でした(アメリカに行っただけでは英語はうまくならないという真実も突きつけられましたが)。

兵庫医大の防災・トリアージ訓練

防災・トリアージ訓練の様子が1月15日5の神戸新聞・読売新聞の朝刊に掲載されました。

2005年のJR事故は本当に悲惨でしたが、最も近い災害拠点病院である当院が113名の被災者の方々を受け入れ、全病院一丸となって治療に当たることができたのも、このような日頃の訓練の賜物です。

これからも地域医療に根ざした災害拠点病院として、気を引き締めて頑張っていきます。参加してくれた皆さんに感謝致します。

 

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カンボジア軍人が兵庫医大に来ました。

兵庫医大救命救急センターに事務局をおく JPR はカンボジアのフンセン首相直属軍が主導するカンボジアの医療体制の確立に協力しています。

この度、軍の最高司令官の General Mao さんを含む9名の軍幹部が来日され、兵庫医大救命救急センターの視察のあと、当科局員や京都大学のS先生とともに大阪梅田にくり出しました。

食事会では英語、クメール後、日本語(最も若い軍人は日本語の勉強をしています)が飛び交い、盛り上がりました。

しかし、カンボジアは常夏の国ですから、最近の大坂地方の極寒は体にこたえるらしく、マオさんは胃痛で、もう一人の軍人は高熱に見舞われ、会もそこそこにホテルに帰り、当科U医局長が往診して点滴するなど、大変な一日になってしまいました。しかし、お互いの友情がさらに深まったのは間違いありません。今度は夏に来ていただきましょう。

 

 

 

ジョージ先生から謹賀新年

皆様あけましておめでとうございます。

 

一昨年4月より私が救急・災害医学講座 主任教授、救命救急センター センター長に就任させていただき、新体制の下で新しい門出を祝ってから、2年が経とうとしております。

 

昨年は2名の新人と2名のベテラン(小児科、外科)が加わり、そして今年は3名の新人と3名のベテラン(外科、小児科、整形外科)が新たに我々の仲間に加わります。

 

2年後には災害拠点病院の耐震化のために政府から頂いた11億円を元に救命救急センターのERとICU、CCU、IVRセンター、病院全体の手術室と外科ICU、周産期センター、アイセンターを容れる急性医療センタービルが完成します。救命救急センターのERにはBurn専用部屋と5つの初療ベッドが設置され、うち2つでは中央手術室まで搬送が難しい症例をその場で全身麻酔をかけて手術が出来るベッドを用意します。

 

研究では昨年は青山倫子研究員がアメリカショック学会と自然免疫・エンドトキシン研究会でアワードを獲得し、今月は橋本篤徳先生がアメリカ集中治療医学会の演題に採択されました。このように短い間に多くの新しい医局員が増え、充実した臨床・研究・教育を行ってこられましたのは、ひとえに支えて下さる皆様のお陰と感謝しております。

 

急性期の初期治療、集中治療、そして急性期医療に関わる各専門科医療(Acute Care Surgery, Acute Care orthopedics, Acute Care Psychology, Acute Care Anesthesiology, Acute Care pediatrics, Acute Care Cardiologistなどなど)を救命救急医の3本柱として、医局員一同、精進してゆく所存です。

 

今後ともなにとぞよろしくご指導、ご鞭撻のほどお願い申し上げます。

 

平成23年 元旦

 

兵庫医科大学 救急・災害医学講座、救急・災害医学講座

 

主任教授 小谷穣治

 

医局員一同

 

大阪国際空港 航空機事故対策総合訓練

11月4日(木)  晴れ

第35回 大阪国際空港 航空機事故対策総合訓練に兵庫医大チームが参加しました。主体は国土交通省です。シナリオ作りは毎年持ち回りで、今年は千里救命救急センターです。ちなみに昨年は我々でした。兵庫医大からは救命救急センター医師3名+私と来年我々の仲間になる研修医1名、そして救命救急センター看護部から3名が参加しました。お天気は去年と同じく快晴。今年の我々の担当は黄色ポストです。

シナリオは以下の通り;

A航空2010便 ア320型機は、最終着陸態勢でメインギアートラブルが発生し、貴重が航空管制官に緊急着陸を要請。緊急着陸で滑走路をオーバーランして機体の主翼部分が大破炎上して、乗客・乗員に多数の死傷者等が発生したという想定。

空港の端っこにJALから提供してもらった飛行機を一機於いて炎上しているという想定で、機内から自力で脱出した人たちやレスキュー隊により救助された乗客たちをトリアージして赤テント、黄色テント、緑テントに移動して順次搬送して行きます。

今回の参加医療施設は以下の通り;

兵庫医科大学(兵庫DMAT)

大阪DMAT

大阪大学医学部附属病院

済生会千里病院の千里救命救急センター

日本赤十字社 兵庫県支部

日本赤十字社 大阪支部

大阪国際空港メディカルセンター

兵庫県災害医療センター

豊中看護専門学校

このような訓練では多施設の方々とも仲良くなります。大きな災害時のみならず、日常の救急医療でもマンパワー不足に陥ることがあるのだから、こうして顔の見える関係を構築して、各施設同士が連携を取る練習をしておくことは大切ですね。

ジョージ先生

APEC首脳会議医療班、頑張って!

既にブログ報告にありますが、第18回日本APEC首脳会議で、当院のDMATチームが救急医療体制確保事業に参加しています。いつものユニフォームじゃなくて、災害用のユニフォームを着ると別人みたいに逞しく見えます。日常的に多くの修羅場を乗り切って来た百戦錬磨の彼らのこと、しっかりと大役を果たしてくれる事でしょう。留守中、こっちは大変だけど、世界の要人を守るため、頑張って下さい。ジョージ先生より

2010年度アメリカショック学会報告

さっきのブログと時期は前後しますが、6月10日からポートランドのアメリカショック学会に発表しに行ってきました。我々は私の神戸大学時代のボスである神戸大学医学部保健学科宇佐美眞研究室とここ6年間共同研究をしてきましたが、今回はその成果として、神戸大学の渡邉まりさん(神戸大学大学院生)の”The role of Interleukin (IL) -18 in lymphocyte apoptosis during endotoxin-induced systemic inflammation. “と神戸大学のみならず兵庫医大の研究生でもある青山倫子博士(Ph.D.)の”Gender difference of Interleukin (IL) -18-related signal transduction in jejunum during endotoxin-induced systemic inflammation.” を熱く語ってきました。そのうち後者は全演題中で10名に与えられるtraveling awardを頂きました。日本の施設からの発表では我々だけでしたのでこれはもう非常に誇りに思っています。残念ながら渡邉さん本人は来られなかったので、青山さんが受け取りました(写真)。

青山倫子博士が渡邉まりさんの代わりに受け取ったアワードの証書。

学会会場で。

私が1997~2000年にアメリカのStephen F. Lowry先生の元で仕事をしている時にアポトーシスの研究を始めるにあたり多くの論文を読みあさりましたが、その頃に多くのアポトーシスに関する非常に重要な発見を論文発表されていたのがDr. Hotchkiss先生です。2007年、当時の丸川前教授時代に主催した日本集中治療医学会にお招きして以来の再会で(そのときは毎日ポートピアホテルのラウンジで飲んでました:「ジョージ、タバコはやめるべきだよ」と言われ。。。:当時は時々吸ってたんです)、久しぶりに親交を深めることができて非常に満足しました。大の娘さんびいきで、日本に呼んだときも、「ビジネスクラスのチケットをエコノミーに変更してその差額をキャッシュで欲しい、無駄は削いですべてを娘のために使いたいんだ」とおっしゃっていましたから、もう筋金入りの娘大好きパパですね。今回も娘さんのお話ばっかりでした(もう一人息子さんが居るはずですが)。そして一緒に写真に写っているのが、ついこの間までHotchkiss先生のところに留学していた東海大学の井上茂亮(しげあき)先生です。彼は私と同じ兵庫県出身で、岩手医大にいる秋冨慎司先生(元兵庫医大)を通じて以前からメル友でした。お会いするのは初めてでしたが、すっかり意気投合しまして、ご覧の写真のような様相になってます。

左からHotchkiss先生、私、東海大学の井上先生。

さて、次の日には、ショック学会に参加していた何人かの日本人の先生方と一緒に夜ごはんに行きました。写真で右から、滋賀医外科&小児科の赤堀浩也・史絵夫妻、日本医大の佐藤格夫先生、私、神戸大学&兵庫医大ダブル在籍の青山倫子先生、日本医大外科の松谷毅先生、東海大学救急の井上茂亮先生、日本医大外科・現在アメリカのNorth Shore University Hospital and Long Island Jewish Medical Centerにいる松田明久先生、京都大学の鈴木崇生先生、東亜大学医療学部の中田敬司先生、そして後ろに立っているのが右から神戸大学医学部保健学科大学院生の高原美樹さんと山内千里さんです。

日本人会ディナーの様子

ところで、もう一枚、バカな写真を紹介します。ポートランドに着いて初日に神戸大学の女性3名を連れてごはんに行った帰りにレストランの前で写真を撮ってもらいました。しかし、私はナプキンをズボンに挟んだままでした。お店の人も「これはジャパニーズスペシャルなスタイルなんだな」とでも思ったのか、何も言わずに何枚も写真を撮ってくれました。

ポートランドのレストランの前で:私はジャパニーズスペシャルなスタイル(?)です。

さて、学会の後半を少しはしょって、私が留学していたニュージャージー州立医科歯科大学—ロバート・ウッド・ジョンソン医科大学(University of Medicine and Dentistry of New Jersey-Robert Wood Johnson Medical School;UMDNJ-RWJMSと略します)の先生方と共同研究の打ち合わせを行うためにニューヨークに移動しました。私の神戸大学第一外科の先輩のお嬢さんで、ニューヨークの学校を卒業してマーケティングとファッションの仕事をしている岩津加由子さんも来てくれました(写真の右端)。彼女はこの7月に帰国し、私達の教室で主に外国関係の仕事を担当する秘書として働いてくれることになりました。

左から神戸大学の青山さん、山内さん、高原さん、そしてNYでビジネスウーマンをしている岩津加由子さん

私のいたUMDNJ-RWJMSはニューヨークのPen StationからNew Jersey Transitという電車に乗って約40〜50分のNew Brunswick駅のすぐ前にあります。大学病院はもともとニュージャージー州立医科歯科大学群のなかの一つの医学部附属病院でしたが、大学病院をJohnson & Johnson社の2人の社長のうち1名のJohnsonさんであるRobert Wood Johnsonさんが買い取ったのでこの名前になっています。そして病院から歩いて3分くらいのところ、New Brunswick駅のすぐ横にJohnson & Johnson社の本社があります。世界企業の本社なのに小さいイメージですが、近郊には広大な工場やオフィスがあります。

New Brunswick駅横のJohnson & Johnson社の本社ビル

約4年ぶりの古巣にはまだ多くに仲間が残っており、大学内のあちこちを訪問して楽しい時間を過ごしました。直属のボスStephen F. Lowry先生にも2007年に日本に招請した時以来お会いできましたし、奥さんのSusette Coyle, R.N.(ブルックリン育ちでしゃべるのが早いんです)、美人で優しく5人の子持ち・外傷外科医・分子生物学者でもあるとても優秀な外科医、Siobhan Corbett, M.D.(写真:このときはNIHグラントの投稿ではなく“査読”をしてました)、胸部外科医のJohn Langenfeld, M.D.の妻、で研究補助をしているElaine(写真:『ジョージ、10年もこんなことしてるって思わなかったでしょ?ところでジョージがいなくなったあと子供が出来たのよ』とかわいいお嬢さんの写真を見せてくれました)、僕にアメリカで“How to survive in America”を毎日教えてくれたAshwini Kumar、僕のビザを日本語名のJojiではなくてGeorgeで作ってくれた秘書のLynn Wood-Keogh(おかげで留学が1ヶ月遅れました)、フローサイトメトリーを教えてくれたJohn、その他多くの仲間が私達を迎えてくれたことにとても感謝しています。そしてなんと言っても、ここは私の二人の息子が生まれた病院でもありますから、何度来ても当時の苦労と喜びを思い出します。来年は息子達に自分のルーツを知ってもらうために連れて来るつもりです。彼らにアメリカ国籍である自覚は全くありませんけど。

胸部外科医のJohn Langenfeldの奥さんであるElaine Langenfeldさん

私の二番目のボスであるDr. Steve E. Calvano:アメリカ時代は生活の面倒まで見てもらいました。

外傷外科医&分子生物学者のSiobhan Corbett, MDと

一番大きな講義室。ここでは毎朝有名人がミニレクチャーをしに来ます。Lowry先生の部下でHMGB1で有名なKevin Tracey先生にもここでお会いしました。

さて、私はニューヨークではもっぱらホテルにこもって仕事をしていましたが、一度、グランドセントラル駅の地下にある昔から有名なオイスターレストランに行ってきました。メニューには読み切れないくらいたくさんの世界中から集めた(と思われる)牡蠣の料理がありました。ここはNY在住の岩津加由子さんにお任せ注文しました。

グランドセントラル駅の地下にある昔から有名なオイスターレストラン

さて、NYの夜の話です。初日は、Bird Landという伝統あるJazz Cubに行きましたが、Jazzではなくて、一人の司会者、JIM CARUSOがJIM CARUSO’S CAST PARTYと名打って、ずっとステージにいて、次々と会場に居るブロードウェイミュージカルを中心とした有名人(西海岸の有名人も居ました)をステージに上げて、まずはトークの掛け合いをして会場を盛り上げ、そのあと一芸を披露させるというショーを展開していました。歌を歌う、バイオリンを弾く、踊る、手品をする(大きく膨らんだ風船を食べていました)、演劇をする、などなど、その芸のすべてがプロフェッショナルで、アメリカの芸術というか芸能というか、その層の厚さには驚くばかりです。それでよく考えたら要するに会場の半分くらいは芸能人とか有名人とかそのお付きの人なのです。でもドリンク込みでたった30ドル。アメリカは凄いですね。2日目の夜は、今度は超スタンダードなJazzを聞きに、Village Bangardに行ってきました。私はこのピアニストを知りませんでしたし、名前も忘れてしまいましたが、凄かった。会場中がシーンとなってみんなが聞き入っていました。音をここでお見せできないのが残念です。

マンハッタンの真ん中、Times Squareの前です。

今回はショック学会のアワード受賞、そして古巣のRWJMSの仲間に会えたこと、NYも楽しめたこと、がとてもいい想い出になりました。

タイ集中治療医学会報告

タイのチェンマイで開催されたThai Society of Critical Care Medicine(TSCCMタイ集中治療医学会)で講演してきました。日本集中治療医学会のSepsis Registry委員会(平澤博之委員長)で2007年10月〜12月に全国の47施設で行われた重症敗血症と敗血症性ショックの患者の調査結果の報告です。私の発表したデータは委員会のブレインである松田直之先生(名古屋大学救急・集中治療医学講座)がデータ入力シートを作成し、データを解析して、2009年の日本集中治療医学会で発表されたものを英語に直して発表させて頂きました。前回の日本集中治療医学会会長の多田恵一先生の奥様がタイの方で、今後同じアジアの国として学術的な協力関係を強めて行こうということで、今回は私、森松博史先生(岡山大学麻酔科)、多田恵一先生(広島市民病院麻酔科)の3名の日本人が招かれています。 この学会には医師のみならず多くのコメディカルの人たちも参加していて、熱気にあふれていました。学会のテーマが”All about Sepsis”というだけあって、テーマのすべてが非常に興味深く、また、討論の内容のレベルが高く、どのセッションに参加しても勉強になりました。タイの医学と医療のレベルはこんなに高いとは思っていなかったので、かなり驚きです。東南アジアでは一番の先進国で、政治も経済も安定しているので当然といえば当然なんでしょうけど。 タイのドクターは、いつもドクター+ファーストネームで呼ばれます。ずっと疑問に思っていたのですが、今日チェンマイ大学の若い外科医と飲みに行ったときに教えてもらいました。彼らのラストネームは、先祖代々をたどって王様の名前になっているので、同じラストネームのひとがいっぱい居るそうで、だから、いつもはファーストネームで呼ぶそうです。なるほど! 昨年チェンマイ大学の外科の先生達が日本に来た時に、私はレクチャーをしたのですが、その晩一緒に御飯食べたときに、僕と一緒にギターを弾いて歌を歌ったDr. bandhuphat chakrabandhuにチェンマイのライブハウスに連れて行ってもらいました。Riversideという川沿いにある昔からあるライブハウスです。約30−40分ごとにバンドが入れ替わります。音楽は基本的にワイルドワイドなポップスをアレンジしていますが、演奏レベルはとても高かったです。特にバンドの名前はわからないけど、昔から出ているというバンドのギターの腕は凄かった。それから女性ボーカリストの声量、リズムもまた凄い。タイの文化の成熟度の高さに驚かされました。 さて、私はこのあといよいよカンボジア軍に合流し、JPRとともにカンボジアの医療システムを立ち上げる準備に入ります。また別ページでご報告します。

日本臨床救急医学会報告

タイトル:日本臨床救急医学会報告

皆さん、こんにちは。今日は、ちょっと遅れましたが、5/31(月)の日本救急医学会@幕張の報告です。私はこの日の朝にコペンハーゲンから成田空港、バスに乗って幕張国際会議場に向かいました。兵庫医大社会福祉士の木村亜紀子さんの発表を援護するためです。演題は「転院支援から見る救命救急センターにおけるソーシャルワーカーの役割」でした。救命救急センターは単一の科では診られない複合疾患の重症例が多く搬入され、また、高齢社会を反映して一人暮らしだったり介護が必要だったりで、なかなか転院先を探せないことが多いのです。かといって、急患は次々と運ばれてくるのですから、センターのベッドの空きも確保しなければなりません。従来は転院交渉、ご家族の方々への説明など、全て担当医師が行っていましたが、医師は本来業務である患者さんの初期治療、検査、診断、手術、集中治療で手一杯で、電話口に何日も到達できないことも多く、近隣病院への交渉や家族への連絡さえ長い時間出来ないこともよくありました。結果、ベッドの満床状態が続き、新しい急患を断らざるを得ないことも多かったのです。さらには大学ですから教育(医学生に限らず消防署や専門学校などたくさん業務があります)、研究活動もしなければなりませんからなおさらです。アメリカでは以前からこのような業務を行う医療社会福祉士が活躍し、出来る限り医師が医療に専念できるようなサポート体制があります。そして数年前からようやく日本でもこの職務の重要性が認知されてきたのですが、まだまだ数が少なく、また日本の医療にあった活動を求めて未だ模索段階と言えます。

このような中に-あって、今回は、救命救急センターや救急病院で活躍する社会福祉士がワークショップの形でそれぞれの施設の工夫や問題点等を発表し合いました。兵庫医大の木村さんは救命救急センターに一日に何度も来られて、転院先の確保が難しい症例や、支援が必要な患者さんのご家族の聞き取り調査や身体的または心のサポートまで、献身的に相談に乗って下さいます。木村さんは自身の関わった症例を分析して、転院や自宅への退院が難しい理由が、1)呼吸器や精神疾患などの身体的問題33%、2)ご家族のご希望や理解不足32%、3)独居など身上の問題18%、4)その他17%と報告しました。他の施設からも、その地域、その病院ごとに様々な事情や工夫が発表され、多くの問題解決のヒントが示され、座長の定光大海先生(大阪医療センター)の司会もすばらしく、壇上と会場が一体となって議論が進み、非常に有意義なセッションでした。木村さん、ご苦労様でした。明日から、またよろしくお願いします。

 さて、私はそのあと重いスーツケースを持って東京駅に移動して、大阪であった日本静脈経腸栄養学会評議員会に出席するはずでしたが、幕張の議論が白熱して抜けられず、参加できなくなってしまったので、メールで書類だけ送ってパスしました。最近はメールやインターネットでこういうことができるので便利ですね。お休みしてすいませんでした。
 そして、この日最後の締めは、北新地であった当科の平田淳一助教の壮行会です。彼は、6月から西宮市の明和病院外に外科修練のために出向するのです。いままでずっと兵庫医大で仕事をしてきましたから、彼にとっては初めての外地研修で、みんなで大いに盛り上げてきました(残念ながら盛り上がりすぎて写真撮影をすっかり忘れてしまいました)。
 ここでは臨床的なことは個人情報の保護の観点から詳しく書けないのですが、センター長がアウェイの間、我が救命救急センターの精鋭達は、多くの重症の患者さん達の治療を一生懸命してくれていました。頼りになる凄腕メンバーです。
 5/31のまとめ:成田→幕張→大阪梅田(パス)→大阪北新地。長い1日でした。おつかれさま!(自分に言ってます。)